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一休さん(一休宗純)の破天荒で型破りな逸話の数々!

2020年09月20日

前回のコラムでは【一休さん】の生涯についてご紹介させて頂きましたが、

とんち話以外にも様々な逸話を残しています。

当時の天皇から一般庶民、スズメにまで広く愛されたとも言われる

一休宗純の破天荒で型破りな逸話はどのようなものがあるのでしょうか?

最も有名な『このはし(橋)、わたるべからず』のとんち話が8歳の頃の逸話ですから、

幼少期からかなり頭の回転が速かった事はわかります。

彼の型破りな行動の裏にはきちんとした風刺があり、

一休さんなりの世間に対するメッセージだったようです。

 

幼少期の逸話、

織物屋の主人・久兵衛とのやり取り

 

前回コラムでご紹介させて頂いたように、

22歳で“一休宗純”の名になるまでには様々な名前の遍歴がありましたが、

今回はわかりやすく【一休さん】の名で統一して逸話をご紹介して参ります。

 

一休さんが幼少期を過ごしたお寺には、

夕方になると必ずやってくる客人がいました。

その人物は織物屋の主人・久兵衛で、

この久兵衛さん、夜遅くまで碁を打ってなかなか帰ってくれない日が多く、

朝の早い一休さんら小僧たちの悩みの種になっていました。

 

そこである日、一休さんはお寺の門に

『皮をつけたものは寺に入るべからず。入ればばちあたるべし』

と張り紙をしました。

これを見た久兵衛は一休さんのいたずらだと睨み、

逆にやり込めてやろうとお寺に入ってきました。

すると、案の定一休さんが飛んできてこう言いました。

 

一休さん「張り紙をご覧になりましたか?

お寺は仏様を御安置する清らかなところです。

殺生をした毛皮を着た人に入られると汚れますのでお帰り下さい」

 

すると、久兵衛はすぐさま言い返します。

「それはおかしな話ですよ。

ほら、本堂にある太鼓には皮が張ってあるではありませんか。

太鼓が許されるなら、私も入らせてもらいますよ」

しかし、この返答は一休さんの想定内でした。

 

 

一休さん「それでは入っても構いませんが、入れば頭を叩きますよ。

本堂の太鼓は皮が張ってあるので、毎日ばちで叩かれています。

久兵衛さんもばちで叩かれても良いならお入り下さい。

さあ、みんな!太鼓のばちを持ってきましょう!」

 

これを聞いた久兵衛は「いやいや、参った」と言い残し、

この日は帰っていったそうです。

また、それ以降来てもすぐに帰るようになったようです。

このように、一休さんは幼少期から頭を使って問題解決に挑んでいました。

 

ガイコツを持って京都の町を歩く奇妙な行動

大人になった一休さんも様々な逸話を残しています。

一休さんはアニメのような愛らしいキャラクターのイメージとは異なり、

かなり破天荒で型破りな人物でした。

その当時、臨済宗の僧たちには禁じられていた飲酒や食肉を嗜み、

多くの女性と関係を持ち、時には男性との関係も築いていきました。

 

そんな一休さんは浄土真宗の中興の祖・蓮如上人と親友だったと言われています。

ある日、蓮如上人の留守中にお寺に忍び込んだ一休さんは、

あろう事か寺の本尊である阿弥陀如来の仏像を枕にして昼寝をしてしまいます。

そして、蓮如上人がその様子を目撃し、怒るかと思いきや

「これ、一休!俺の商売道具に何をする!」と、二人で笑い合ったそうです。

時代を代表するカリスマ二人にしかわからない世界観がそこにはありました。

 

そしてある日のお正月、めでたいはずのその日に、

一休さんはガイコツを持って「ご用心、ご用心」とつぶやきながら歩いていました。

町の人が「一休さん、正月早々どうされたのですか?」と尋ねると、

このような歌を詠んだと伝えられます。

 

『門松は 冥途の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし』

 

年が明けると人々は口々に「おめでとう、おめでとう」と言いますが、

一日生きたということは、一日死に近づいたことを意味するのです。

そして、また一年正月を迎える日には一年分、大きく死に近づいたということですから、

元旦は冥途への旅の一里塚なのです。うかうかしていると人間はたちまち、

このガイコツになってしまいますよ。ご用心、ご用心……

このようなメッセージが込められていたと言われています。

 

普段の姿は、

名僧とは思えぬ風体で過ごしていた?

幼少期から厳しい修行をし、

後には臨済宗の名刹・大徳寺の住職も務めることになる一休さんですから、

名僧であることは間違いありません。

しかし、伝えられる一休さんの普段の姿は

とてもみすぼらしい風体だったと言われています。

 

そんな一休さんが京都の富豪から法要の招待を受けた時の話です。

たまたま法要の前日にその富豪のお屋敷の前を通ったので、

ちょっと顔を出して挨拶でもしようと屋敷に入ろうとしました。

しかし、一休さんの顔を知らなかった門番に止められてしまいます。

一休さんは屋敷の主人に告げてくれればわかるから、

とにかく話を通してみてくれと伝えますが、

そのみすぼらしい身なりで主人が法要を頼んだ住職だと信じてくれず、

結局門番に叩き出され、追い払われてしまいます。

 

翌日、一休さんは紫の法衣を身にまとい、

弟子を連れて門前に立つと昨日の門番も神妙に頭を下げて迎えてくれます。

主人のもとへ通された一休さんは、「昨日はお世話になりました」と主人に告げます。

しかし、門前で追い返されたので主人はこれを言われてもピンときません。

そこで一休さんは、みすぼらしい身なりで門番に追い返されたことを告げます。

 

すると主人は「知らなかったとはいえ、ご無礼致しました。

しかし、なぜ、お名前をおしゃって頂けなかったのですか?」と、

名前を告げていたら門番も気づいていたと釈明をします。

これを聞いた一休さんはすかさず紫の法衣を脱ぎすて、こう言い放ちました。

「この一休にはなんの価値もない。この紫の法衣に価値があるのだから、

法衣にお経を読んでもらったらよかろう」と法衣を置いて帰ってしまったのです。

 

一休さんは中身のない僧侶が紫の法衣で着飾り、権勢を誇っていることを嫌っていました。

身なりで人間の価値はわからないのだから、

決して身なりで判断してはならないと教えたとの逸話です。

 

このように、

一休さんの破天荒で型破りな行動には伝えたいメッセージが込められていました。

そんな一休さんは70代後半に30代半ばの女性に恋をします。

この女性は『森侍者(しんじしゃ)』という盲目の旅芸人で、

亡くなるまでの約10年間同棲生活を送ることになります。

この女性との出会いをきっかけに、一休さんの行動は落ち着いたと言われています。

しかし、晩年になって年も倍ほど離れた女性と同棲など、

人生の最後まで破天荒な一休さんの生涯でした。

 

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***

一休さんの逸話はどこか人々を惹きつける話が多いと感じました。

権力を人一倍嫌ったと言われる一休さんは、

口には出さずともその生きざまに全て表されているのではないでしょうか?

一休さんのような生き方には憧れますが、

さすがに阿弥陀如来の仏像を枕に昼寝は真似できませんね。

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